日本音楽学会第71回全国大会
I-4 印牧沙織(東日本支部)
沈黙のゲシュタルト
──マーク・アンドレと休符の多様性──
楽曲の中で沈黙が生じると、それは休符が音楽的に実現されたと認識しても大方間違いないであろう。伝統的な西洋音楽の五線記譜法において、休符は音の休止を示すシンボルとして理解されている。しかし果たして休符=沈黙なのか。二十世紀前半に興ったダダイズムをきっかけに、作曲家エルヴィン・シュルホフの《5つのピトレスク》より〈未来に〉(1919)や作家アルフォンス・アレーの『葬送行進曲』(1966)など、音楽家のみならず他の芸術領域に従事するアーティスト等が伝統的な音楽記譜法からインスピレーションを受け、機知に富む沈黙を芸術表現として採用するようになった。また、1952年ジョン・ケージによって作曲された《4分33秒》は、休符を担うTacetによる記譜で沈黙を表現するばかりか、それと同時に記譜上に存在しない環境音をパフォーマンスの一部として認識する解釈をも生んだ。それ以来、沈黙はもはや記譜された音楽の構成要素であることを意味するというより、それによって導き出される演奏状況そのものを音楽現象としてとらえられるようになったともいえるだろう。
本論では、この背景を踏まえて、休符また演奏上の「休み」を意図する指示によってどのように沈黙が表現され、そして音楽的に解釈されるのかについて、マーク・アンドレの《Riss 2》(2014)を例に考察する。この楽曲は15のセクションから成り、セクション間には作曲家自らによって表示された「Riss」すなわち「裂け目」が14存在する。これらは共通して五線記譜法に則って休符で表現されているが、各々が形成する長さや時間観によって、その沈黙は様々である。つまり、休符によって生じる沈黙が一様でないことがいえる。どのようにしてアンドレは多様な沈黙のゲシュタルトを可能にしたのか。作曲家、演奏家、聴き手の三つの異なる立場からも、その沈黙の表現方法の違いを検証する。