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H-1 佐藤由佳子(東日本支部)

東京商船学校における初期の校歌をめぐる文化状況
──民衆音楽の文化とのつながりに着目して──

 

 現在では、「校歌」は学校側が「上から」公的に制定するというモデルでイメージされる傾向にある。しかし、明治30年代以降の初期、とりわけ公立の伝統校には、皆で歌う歌が生み出されてゆく土壌があり、そこでは校歌とその周辺の歌の文化が民衆音楽の文化と重なり合う形で展開されていた。

そのような文化状況の一端を示すものとして、本発表では、東京商船学校(現東京海洋大学)の事例を取り上げたい。

 現在、東京商船学校の歌として知られる《白菊の歌》は、実際には明治末期に大島商船学校で生まれた可能性が高く、その後、演歌師の神長瞭月によって(東京)商船学校のヴァイオリン演歌として歌われて全国に広まり、「校歌」「寮歌」といった名称でその楽譜やレコードが売り出された。この歌は、東京商船学校においても歌われるようになったが、この学校で学生たちの愛唱歌の中心に位置していたのはむしろ《館山節》であった。《館山節》の元唄は民謡であり、この歌は、少なくとも明治末期から大正期序盤頃までは、校歌的存在の歌であったといえる。東京商船学校では、大正2年頃に「旧校歌」が作られ、昭和7年には「新校歌」が制定されるが、昭和10年代後半に出版された全国の学校の歌を総集した著作においては、東京商船学校の「校歌」として《館山節》が掲載されており、この時期に至ってもなお、民謡を転用した歌を、その学校を代表する歌とする認識が存在していた。

以上のように、学校で歌われていた歌が演歌として広まった《白菊の歌》と、民謡が学校の歌として転用された《館山節》とでは、校歌をめぐる学校の歌と民衆音楽との関係という点からみると、逆の方向性を示している。したがって、両文化は相互に作用し合いながら成り立っていたのである。

 この東京商船学校の事例を突破口に、この時代における校歌をめぐる文化と民衆音楽の文化との相関的な展開のありようや、その後の変容の背景を明らかにしたいと考えている。

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