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H-4 小田智美(西日本支部)

地域展開する浅草オペラ
──京都日出新聞の分析を通じて──

 大正時代の、浅草を始めとしたオペラブーム、いわゆる「浅草オペラ」は、大衆に日常的な娯楽の場で、洋楽が熱狂的に受け入れられた場面であった。本研究の目的は「京都の興行街で浅草オペラはどのように受容されたか」を明らかにすることである。筆者は、浅草オペラの「地方巡業」に着目した。京都日出新聞を主な資料として、上演作品や役者に関する言説を詳細に分析した。京都日出新聞は豊富な地方読者を基盤に地方色を発揮して成功した郷土紙とされており、京都府立京都学・歴彩館にマイクロフィルム版で所蔵されている。浅草オペラの専門誌とされる『歌舞』や、役者の回想録が分析で重要な資料となった。

 大正9(1920)年の新京極には、続々と歌劇団がやって来て、大規模な劇場の一つであった夷谷座で頻繁に公演を行った。当初は一風変わった演目として、観客はオペラに興味を示し、歌劇団を大きな期待でもって迎えた。しかしオペラ人気とは裏腹に、役者の舞台上の様子を批判する記事も目立った。その様子は、観客の役者に寄せる芸術的側面から離れた期待と、それに応える役者の振るまいであったといえる。浅草と新京極は同じ興行街でも、京都日出新聞の記述によれば、「俗悪な浅草と高尚な新京極」のイメージがあったと考えられる。役者の態度を「変な浅草臭」と揶揄したその表現からも、両者の格式の差を捉える眼が向けられている。卑俗な見世物を起源とする浅草の興行に対する先入観が、「変な浅草臭」という表現に結びついたと考える。また役者の回想から、実際に京都は興行の取り締まりが厳しい状況であったとわかった。そして当時、浅草の歌劇団に対抗して、京都独自の歌劇団が結成された。

 近代日本の歌劇上演は、東京やその周辺の上演史に基づいて論じられることが多い。本研究によって、歌劇上演のローカルな動きを追うことで、大正期の歌劇受容をより立体的に描く可能性が明確になった。

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