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H-3 井上さつき(東日本支部)

1920年代の日本楽器製造(現ヤマハ)について
──箕輪焉三郎文書を通して──

 

 日本楽器製造株式会社(現ヤマハ、以後ヤマハと表記する)は山葉寅楠(1851−1916)が創始した会社である。その後を継いで二代目社長となったのが、内務官僚の道を歩んできた天野千代丸(1865−1937)だった。天野は第一次世界大戦終了後の反動不況の中で、強気に経営を進め、陸軍指定工場としてプロペラ製造を開始し(1921)、西川楽器を吸収合併する(1921)。この吸収合併により、ヤマハは国内市場の9割近くを独占するようになったが、その裏で、経営状態は悪化していた。ヤマハでは1926年未曽有の労働争議が起こるが、それ以前に、すでに問題山積の状態になっていた。

 その状況が、当時ヤマハの重役を務めていた箕輪焉三郎(1873−1941)が残した文書類から明らかになる。箕輪は東京高等商業学校卒業後、三井物産入社、台北・大連支店長、門司支店石炭部次長、長崎支店長を歴任し、のちにヤマハの専務取締役となり(1924)、ついで、自ら取締役に降格した(1926)。三井系の箕輪は、住友系の川上嘉市が同社の三代目の社長に着任したのち、退職した(1928)。

 箕輪がヤマハ在職中に残した文書は沼津市明治史料館の「旧幕臣箕輪家資料」の中に整理されている。「日本楽器製造株式会社」という項目には、書簡(187件)、新聞・ビラ・書類(55件)、書類綴(550件)、追加分(49件)があるが、これまでその存在は知られていなかった。箕輪に関しては、ヤマハの『社史』ではまったく語られず、他の文書でもほとんど触れられていない。しかし、箕輪が執筆したマル秘の資料「日本楽器専務として経営状況につき所見」(1926)をはじめ、彼が残した文書からは、当時の日本の楽器産業が抱えていた問題が浮き彫りになる。箕輪は近代的な企業人のエリートであり、二代目社長天野の放漫経営を押さえて、危機に瀕していたヤマハの経営を立て直そうと尽力した。その問題意識は三代目社長川上嘉市の改革に生かされることになった。

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