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A-3 長木誠司(東日本支部)

デッサウ弦楽四重奏団と日本の作曲家
──第二次世界大戦期ドイツにおける日本作品受容の一景──

 

 ベルリン独日協会は戦前・戦中期に日独の交流を図るとともに、文化事業を通して政治的連携を喧伝する場となり、日本文化紹介の出先機関としても機能した。

この時期、ヴァインガルトナー賞やチェレプニン出版を通して少しずつ知られるようになっていた日本の作曲家に興味を示すドイツの音楽家たちも存在した。F.ルップレヒトをチェロ奏者とするデッサウ弦楽四重奏団のように。彼らは1939年に日本の弦楽四重奏のみによる演奏会を企画し、独日協会に援助を求めた。ヴァインガルトナー賞受賞の安部幸明、ISCM入賞の小船幸次郎、K.プリングスハイムを通して知った尾高尚忠の作品がプログラムに上った。独日協会はこの企画を積極的に支援し、毎年同様の演奏会が企画されることになった。ドイツに併合されたオーストリアでの開催も企画され、ドイツから帰国する時期にあった尾高を仲介にして日本国内ではドイツの作品を紹介するという、対等の相互文化交流の話にまで進展する。

 皇紀2600年事業への注力、日本の参戦、さらに四重奏団の解散によって、この未曾有の文化交流は実現しなかったが、平尾貴四男と諸井三郎、呉泰次郎の作品もこの弦楽四重奏団のレパートリーになり、他の作曲家たちへの興味も失われることがなかった。

 独日協会とデッサウの面々は1941年にドイツ・グラモフォン社で5曲の録音を企画。これは近衛秀麿とベルリン・フィルによる録音に比する快挙であったが、団の解散と戦争の影響によりリリースは1944年であった。

3曲録音されたシェラック盤は時局ゆえに日本に達することはなく、独日双方で忘却されていたが、現在ライプツィヒのドイツ国立図書館にほとんど針を通したことのない状態で保存されていることが判明した。本発表では発表者の要請でディジタル化されたこの音盤の音に結実した当時の創作と、未完に終わった日独文化交流の1コマを洗い出す。

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