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H-2 武石みどり(東日本支部)

大正~昭和初期の映画館の音楽
──洋楽受容史の観点から──

 

 明治期に洋楽の受容が始まってから昭和初年に交響楽団が設立されるに至るまで、国内での洋楽合奏はどのような経過で展開したのであろうか。2019年の発表で用いた1916−29年までの約2100枚の映画館週報に加えて、コロンビア大学所蔵の600余枚の週報を調査対象として、東京および横浜の主な映画館15館の演奏者と演奏曲目の特徴と変化について詳しく報告する。

 考察対象期間は、①1920年まで、②1921-25年、③1926-29年の3期に区分できる。①では洋画上映館で洋楽演奏が開始されたが、演奏者数は5~13人で必ずしも高い演奏レベルをともなわず、週報に楽曲名が明記されていないことも多い。②では1921年の松竹キネマ設立を契機に、洋画館で伴奏曲と休憩奏楽が定着化し、演奏者数は20人前後に拡大した。特に浅草帝国館では軍楽隊と浅草オペラのレパートリーを中心に演奏曲の定番化が見られる。これに対して東洋キネマ・目黒キネマ・武蔵野館ではコンサート・オーケストラへの志向が強く、外国人と共演しオーケストラ運動へ参画する動きが見られた。他方、邦画館では演奏楽曲の模索が続き、三友館では松平信博が伴奏曲の編・作曲を開始した。③の時期には日本交響楽協会等が設立されたことにより、映画館楽士の一部は交響楽団員を兼業することとなった。映画館は次第に西洋音楽の紹介・普及の場から多様なアトラクションを楽しむ場へと変わり、ジャズ、レビュー等の実演が増加した。邦画上映館では和洋大合奏や綜合曲・幻想曲と称する編曲作品の演奏が増加し、西洋楽曲の演奏は減少した。

 結論として大正~昭和初期の映画館は、「洋楽」の受容・定着の場であったとともに、交響楽団の誕生、サロン音楽・ダンス音楽の演奏、映画音楽の作曲、ジャズやレビューの上演といった多様なジャンルへの分化が生ずる場でもあったと言うことができる。

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