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C-4 林 直樹(東日本支部)

19世紀におけるマドレーヌ教会での戦争式典とレクイエム
──第2次イタリア独立戦争と普仏戦争を中心に──

 

 1889年2月13日、パリのマドレーヌ教会にてガブリエル・フォーレ Gabriel Fauré(1845–1924)の《レクイエム》が普仏戦争の死傷者のための追悼式典にて演奏された(Le Figaro, 1889年2月8日)。この式典には多くの政府関係者が列席し、更に運営団体の陸海負傷軍人救護協会の会報は大統領より500フランの寄付があったと報告している。では、なぜマドレーヌがこの大規模な式典の場として選出されたのだろうか。そこで本発表では、マドレーヌの歴史と、そこで開催されていた戦争関連式典を整理し、今まで十分に論じられていなかった19世紀におけるレクイエムの演奏の政治的文脈を明らかにする。

 1764年に建設を開始したマドレーヌは、革命を契機にフランス軍を称える神殿へとその用途を変更したが、王政復古により再び教会として使用されることとなった(Levy 2006, 56-57)。ルイ18世は、マドレーヌにて処刑された王族を悼む式典を計画し、反発した帝国主義者たちは殉職した将軍たちを悼む場としてマドレーヌを用いようとした(Le Voltaire, 1884年10月26日)。その結果マドレーヌでは, 戦争死傷者のためのレクイエムのミサが頻繁に挙行されることとなった。まず、フォーレのニーデルメイエール古典宗教音楽学校時代の教師ルイ・ディーチュ Louis Dietsch(1808–1865)の《レクイエム》が、 1859年5月8日に第2次イタリア独立戦争に関する式典にて(Le Phare de la Loire, 1859年5月7日)、そして1870年11月2日と1871年1月26日に、普仏戦争の戦争式典がマドレーヌで挙行され、ルイージ・ケルビーニ Luigi Cherubini(1760–1842)の《レクイエム》ハ短調がそれぞれ演奏された(Le Soir, 1870年10月27日)(Journal des débats politiques et littéraires, 1871年1月26日)。

一連の式典からは、19世紀フランスにおける、戦争式典に適した場としてのマドレーヌの歴史を見て取れる。ディーチュから教育を受け、そしてマドレーヌにオルガニストとして着任したフォーレの《レクイエム》も、この教会の「戦争レクイエムのレパートリー」のひとつであったといえる。

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